初子を差し出すことについて

 さて、15年以上一度も聖書を開かずに、というか開けずに、どうやってキリスト教について語るのか、そんな無茶苦茶なことできるわけない、と思いつつ、書こうとしている自分ですが、何から書こうかな。

もうどんどん忘れてしまって、愛しか残ってない、とは言うものの、聖書の神って厳しかったんじゃなかっけ?特に旧約聖書。うーん、確かにそんな気がするけど、でもやっぱり愛しか残ってないんですよねえ。言ってみれば、神の厳しさって、厳父の厳しさで、それは真実の愛に裏打ちされた、愛ゆえの厳しさって感じですかね。子供のころを思い出すと、父って厳しかったよなあ。でも、今から思えば、それがあってこそ今の自分があるっていうか。大人になってから振り返ると、愛ゆえの厳しさだったんだな、と逆に感謝する、みたいな感じでしょうか。


その厳しさも、今となってはだいぶ忘れてしまいましたが、いまだに覚えているのは、初子を神に差し出すってこと。なんて無慈悲なことを神様は要求するのかって、思いましたけど、いざ初子を神に差し出すために殺そうとしたその瞬間、

"Stop!!"

神からストップが掛かった。

そしてその瞬間、僕は慈悲の光を見た。例の白い光ですけどね。

神は人間がどれだけご自分に心を向けているか試みるために、厳しい試練をお与えになったのですが、ちゃんと心を向けたら、慈悲をかけてくださった。そんな場面が聖書にありましたよね。もう誰の初子のシーンだったかすら忘れたのですが、その場面だけ心に焼き付いている。

そして後に残るのは、初子を差し出させる神の厳しさよりも、直前でストップをかけて初子を救って下さった慈悲、すなわち愛の方なんですよね。

神はどうしても人の心をご自分に向けさせたかったんでしょう。それはわたしたちを幸せにするためです。幸せは神から来るのに、神に心を向けないでどうして幸せになれるでしょう。神はどうしてもわたしたちを幸せにしたいんですね。神は幸福そのものなのに、それから目を背けてどうするというのか。

初子を差し出すって、そんな厳しいことを・・・

では神は、ご自分は、どうされたのかというと

キリストを差し出された。ご自分の初子を私たちのために差し出された

ってことになるのかな。

愛と慈悲の導くままに

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