最後に愛だけが残った
というわけで親鸞からすんなりキリスト教に行けちゃったのですが、僕は原典主義なので、(仏教のときもそうでしたが)、まずは聖書を読もうと。
でも、キリスト教は便利ですよね。イスラム教もそうだけど、ちゃんと原典が整備されてある。仏教でも仏典結集とかいってブッタの教えをまとめようとする試みはなされたみたいですけど、それなのにあの膨大な量!収拾がつきません。
で、これから聖書を語るのかというと、そんな誰それたことできるはずもなく、今はする気もありません。でも、当時は聖書を読むと途中からどのページを読んでも
「神はお前を救う」
としか読めなくなり、困った。どこを読んでも
「神はお前を救う」
と書いてある。その「お前」とは人類すべてを指しているんですけどね。その人類すべてに中に僕も幸い含まれているはずなので、個人的に聖書に向き合っている時は
「神はお前を救う」
と聞こえるわけです。そしてその時、例の、というか霊の、あの白い光が見えるわけです。恍惚として昇天。法悦の状態。仏典を読んだときに体験した
「仏はお前を救う」
とどこを読んでも書いてあった時と同じ状態ですね。そして白い光が見えるわけですが、それが聖書で見た光と全く同じだったわけです。だから、親鸞からキリスト教に行ったからと言って、「改宗」したわけではなく、仏教徒のままキリスト教徒である、と言って平然としていられる。そしてさらに度が過ぎて、イスラム教徒でありヒンズー教徒(ラーマクリシュナ)である、となってしまうのですが、それはまた後の話。
一時は、白い光が見えた時、いちいちその聖書の言葉を引用してポストしたりしてたのですが、それも今となっては過去の話。もうそれはいいかなと。
だって、今は神様に封印されちゃって開けない。聖書がね。左の手に届くところに"THE STUDY BIBLE"あるにはあるんだけど。
で、ここ15年くらい、聖書も開いてません。当然、どんどん忘れて行ってしまう。そして、最後に残るのは愛だけ。愛だけしか残らない。でも、それだけあれば十分じゃないですか。
愛と慈悲の導くままに
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