起きて半畳、寝て一畳
いやー、昨日は書いててアホらしくなってしまいました。人間は2000年以上、ひょっとすると何千年も前から何の価値もないものに価値があると思い込んで、つまり「お金様」の術中にはまって、蜃気楼を追いかけていたんだなあと思うとアホらしくてアホらしくて。
そりゃー出家の一つや二つ、したくはなるわな。こんな娑婆世界、一抜けたとかいって。
そうやって原始仏典ではみんな本当に出家しちゃうんですけどね、一人残らず。それでどうなったかは忘れました。
とにかく、もう一度「交換価値」についておさらいしておくと、われらが崇める「お金様」は人間を満足させないために無理やり差異を作り出した。衣食住についても、本当は足りてるんです、量的には。そこでみんなが、
「吾唯知足」(われただ足るを知るのみ)
とかどっかの禅僧みたいなこといって、あとは神の御恵みに甘んじて幸せに生きようなんて言い出したら大ごとです。お金が増えない。経済成長ができない。
ああ、「経済成長率」!
なんという呪縛
とにかくわたしたち人間が満足して幸せになってしまったら、「お金様」は困るんですよ。だから何としても「不満」を作り出さなければならない。
そこで「お金様」は「衣」についても「高級なもの」と「低級なもの」、「食」についても「高級なもの」と「低級なもの」、「住」についても「高級なもの」と「低級なもの」、その他ありとあらゆるものについて「高級なもの」と「低級なもの」、さらには人間そのものについてまで「高級な者」と「低級な者」(つまり身分制度)という「差異」を無理やり作り出して、人間の欲望と虚栄心の炎が永遠に燃え盛るようにし、利潤と投資のサイクルが永遠に続くようにして、「お金様」ご自身が未来永劫に増え続けるようになさったのです。そしてお金様の支配が続く限り、人間は未来永劫「不満」のもとに置かれる。
衣食住の需要が「量」的問題にとどまる限り、それは絶対的指標であって、限度はある。ゴールはある。ところが、そこに「高級」とか「低級」とかいう「質」的問題、つまりでっちあげられた「差異」が生み出されることによって、すべてが「相対的」となり限度がなくなる。量的には足りているのに
「お前たちが手にしているのは「低級なもの」だ。だからお前たちは不幸なんだ」
と信じ込ませる。基準が絶対的なものから相対的なものになったら、終わりがない。差異が生み出され続ける限り、常に「高級」と「低級」は再生産され、すべてが「高級」となる日は永遠に来ない。
前にも言ったでしょう。本当は食べ物に「粗食」なんてものはないって。尊い命を頂いてるんだから全部「貴食」なんだって。住むところだって禅僧なんか
「起きて半畳、寝て一畳」(一畳=1.82405㎡)
ですよ。これは
「起きている時は半畳あればいい。寝ている時は一畳あればいい」
という、人間に本当に必要な居住空間を言い表した教えです。人間みんながこんな悟りを得られたら、不動産市場はたちまち崩壊ですよ。われらが支配者「お金様」は発狂するに違いありません。でも、不動産市場が崩壊したら、家賃が下がってみんなの生活が楽になっていいじゃないですか。困るのは「高級な」物件を所有する金持ちだけですよ。その金持ちだって所有する「物件」がなくなるわけではないし。ただ値段が下がるだけ、お金が減るだけで住むところはそのままあるからいいんじゃね。生きてはいけますよ。みんなと同程度に、だけどね。もうでっちあげられた「差異」はない。
こうみると金との戦いに関しては、ほとけの教えは最強だな。
こいつらにだけは「金の誘惑」が効かねえ。
(いや、もう一つイスラムの「利子を取ってはならない」があったな。これについては次こそ必ず)
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