ユートピアの到来

 祈りのブログなのにお金の話からドツボにはまってしまい、いつまでたっても抜け出せませんが、そろそろまとめたいと思います。

僕が願う社会はすべての人に衣食住が保障され、ワークライフバランスが適切に保たれた格差のない社会です。格差のない社会とは「個性」という違いはあっても「優劣」や「上下」とか「勝ち負け」といった嫉妬を生み出す差異のない社会のことです。どんなに物質的に満ち足りても人間同士の間で相対的な基準をでっち上げて優劣を決めることから抜け出せなければ、永遠に勝ち組と負け組が再生産され続けて、すべての人が幸せになることはできません。必ず相対的に少数の勝ち組だけが幸福感を享受し、多数の負け組が劣等感に苛まれて不幸となる。

この相対性の罠にかかってしまっては、どんなに経済が発展しようとも、どんなに科学技術が進歩しようとも、すべての人が幸福になることはできませんね。常に他者との比較でしか幸福を実感できないのですから。自分が幸福を感じるためには、他人の不幸が必須条件。他人の不幸な様を見てはじめて自分は「あいつらよりは勝っている」と言って優越感に浸ることができる。それが幸せの源。ああ、なんということでしょう。他人が不幸にならなければ自分が幸福になれないとしたら。ああ、なんという呪い!

これを解決できるのは信仰しかないと思います。

さて、その前に生物として生存できなければ始まりませんね。なので生物として生き残るための物質的条件の確保、すなわち人間の場合は「衣食住」の確保は前提条件です。これは信仰が直接解決できるものではない。しかしこれを無視してはすべての人が幸福になることはできません。そして物質的条件の確保に絡んでお金は避けて通れないので今ドツボにはまっているところなのです。

その生存のための物質的条件の確保ですが、人口が増え続ければいずれ生態系への負荷が過大になって維持できなくなるのは必然ですから、出生率を下げて人口を減らしていくこと以外に道はないと思われます。これは前に見てきた通りです。

そして人口問題が解決されれば、量的に衣食住を確保することは可能である。実は今でも世界全体としては衣食住は足りている。不足の一方には過剰があり本当は分配の問題である。しかし、今の足りている状況は生態系に過剰な負荷をかけている状態での結果なので、環境や生態系をすさまじい勢いで破壊し続けている状況であり、このままではとてもサステイナブルとは言えない。ゆえに人口減少は自然の摂理である。

ここで、誰が物質的条件を確保するために働くのか、ということについて考えてみたいと思います。もちろんはじめは「みんな」ですよね。人間一人一人が生産活動に従事するわけです。しかし、そこに科学技術や機械といったものが登場してくる。すると今まで一人で一人分の生産しかできなかったものが、一人で2人分、3人分、ついには一人で10人分の生産が可能になる。つまり科学技術や機械の進歩によって生産効率がどんどん上がるわけです。ならば、一人だけ働いて9人は遊んでいられる。またはワークシェアリングをして仕事時間が10分の一ですむ。後の時間は自由時間。スポーツや芸術やレクリエーション、祈りの時間に使える、はず。最高じゃないですか。天国は近づいた?

ところが全然そうはならない。なんで?

機械が人間の労働に代わって仕事をして、人間が肉体労働から解放されるユートピアを想像した人は産業革命以降になってからは結構いたようですね。たしかに単純肉体労働は減ったが、労働時間はなかなか減らない。それどころか仕事のストレスは増えるばかり。そして今、AIが人間の知的労働に取って代わろうとしている。これで人間はストレスのかかる労働からも解放されていよいよユートピアが来るのか。

なんか来なさそうですよね。

ユートピアの到来を妨げているものは何なのか。

やっぱり「カネ」じゃないですかね。金が人間を支配している限り、人間をあらたな経済活動に駆り立てるためにあらたな不満が作り出され、ヒトはカネに永遠にこき使われる運命。そしてカネだけが自己増殖を続ける。

ヒトはカネが自己増殖を続けるための単なる手段、都合のいい手段に過ぎない。そしてボロ雑巾のように使われて、役に立たなくなったら捨てられる。それでもヒトが反抗しないのは、ヒトがカネを信じているから。ヒトは神ではなく、すなわち仏ではなく、カネを信仰している。カネだけがヒトを幸せにしてくれると信じ込まされている。そして疑いもなく信じ込んでいる。

そしてカネに対抗するはずの宗教の側も、カネに篭絡されている。最初は利子を禁じていたのに、いつのまにか抜け道がつくられている。

ヒトは科学技術の進歩によって、生存に必要な物理的条件を満たすだけの手段を実はとっくに手にしている。ただし、生態系への過剰な負荷を抑えるために適切に人口を管理する必要はある。

後は相対的基準で自分の幸福を測ることからの脱却

そして「少欲知足」

キリスト教にも「少欲知足」な人はいましたよね。聖サンフランシスコ。でも「清貧」といいますが、本当は「貧」ではないと思いますね。「貧」とは必要なものが足りてなくて困っている状態をいうのです。生きるのに必要なものだけで「満足」しているのだから、本人は「貧」とは思ってないと思いますよ。それどころか神の恵みに最大限感謝しているはずです。それを貪欲な私たちから見て「貧」と言っているだけでしょう。

神への、仏への、信仰だけがカネを倒せるんじゃありませんか。




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