論語に慈悲の光を見た!

 また見てしまいました。慈悲の光を。

と言いたいところですが、本当のところ、今回は見ていません。でも実質同じ感じなんですよね。以前は本当に見えたのですが。今回はちょっと違う。なんかじわっと来る感じ。誰かが

「火の信心ではダメだ。水の信心でないと」

と言ってましたが、その水のようにじわって来る感じ。それ言ってたの、誰だっけ?えーと、思い出した、

”山本伸一”

さて、昔の優男(在原業平)のように

「思ひ余りて言葉足らず」

になってしまいそうですが、自分の拙い文章力ではしょうがない。きっと伝わらないのを承知で書いています。

「夫子の道は忠恕のみ」(論語)

伊藤仁斎の注「自分のすべてをつくすのを忠といい、他人をおしはかることを恕という。自分の心を出しつくすと、他人と自分の区別がなくなる。他人の心をおしはかると、かゆみもいたさもすべてわが身にひとしとこたえる。(弟子の)曽子は忠恕の二字で夫子(孔子)の道を言い尽くせると考えた。」

聖典を引用しないと前に言っておきながら、自ら誓いを破ってしまいました。儒教は宗教?論語は聖典?だからいっか。

相手を自分のように思うことを愛と言い、慈悲と言う。忠恕が愛でなくてなんでしょう。忠恕が慈悲でなくてなんでしょう。

もうこれを聞けたら

「朝(あした)に道を聞けば、夕べに死すとも可なり」(これも論語)

って感じ。でも、夕べに死んだら全然可じゃないでしょ。せっかく道を聞いたんだから、その道をどこまでも歩いていきたいよね。だから簡単に死ぬわけには行かない。ということで、今年は定期健診で

「がん検診も受けるぞ!」

で、「大腸がん検査を受ける」に〇したら、嫁が

「トイレが汚れるからやめて!」

どうやら、嫁は僕の命よりトイレが汚れることの方が心配みたい。いや、ぜったい受けるぞ!大腸がんだけでなく、胃がんと肺がん検診も。

今、日本の名著シリーズで中江藤樹、熊沢蕃山、山鹿素行と来て伊藤仁斎の「論語古義」にいるんですが、上記のところから一歩も前に進めない。それにしても儒学者ばかりだな。江戸時代(17世紀~19世紀)の名著モノって儒学者しかおらんのか?

蓋しマホメットが

「神はそれぞれの民族に一人ずつ預言者を遣わした」

と言ってたのは本当だったんだな。中国でも2600年も前にちゃんと愛を説いている。愛ていうか慈悲ていうか仁ていうか忠恕。あなたとわたしが一つになることが道であると。わたしたちが一つになる道が宗教だと思うんですけど、孔子もとっくに説いていた。

「自分のことを出しつくすと他人と自分の区別がなくなる」

ここ、いいですね。

「吾が道一を以ってこれを貫く」(論語)

「忠恕が聖人の学問の始めであり、終わりであるものなのだ。」と仁斎は言っています。

愛が出発点であり、ゴールであるのですね。(キリスト教ならそういうでしょ)

慈悲に始まり、慈悲で終わるのですね。(仏教ならそういうでしょ)

仁斎は聖人の学問と言っているので、儒教を宗教と言うより学問ととらえているようです。

もうどっちでもいいでしょ。同じこと言ってんだから。同じゴールを目指して。

なんか、キリスト教とかイスラムとか仏教とかヒンズー教とかもういっか、と思ってたんですが、それに儒教も加わってますます

「もういっか」

ついでに、国境とかひいちゃって国同士で争ってますけど、それも

「もういっか」

僕個人的にはそうなちゃってるんですけど、人類全体が早くそうなって一つになれればいいのに。もう経済的にも情報通信的にもそうなりつつあるんだから。

愛と慈悲の導くままに

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