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強すぎた愛の副作用

キリスト教はキリストは神の息子であるという「反則ワザ」を出してきました。そして僕はそれによって倒されたのですが、そのウルトラCは反則ワザゆえに深刻な副作用を伴っていました。それが 「三位一体説」 です。キリストが神の息子なら、父である神とはどうつながっているの?父と子をつなぐために聖霊があって、父と子と聖霊とは三位一体・・・なにそれ?三位一体説、何回聞いてもわかりません。三位一体を信じるとか信じないとか以前に完全に意味不明。全然理解できない。ちなみに母のマリアはどうなるの? いつも、キリスト教のお祈りで神父さんが「父と子と聖霊のみ名において、アーメン」とか言っているのを聞いて「父と子と聖霊?なんで3つもあるの?」と何だか難しそうだな、と思っていたのです。 難解すぎて僕の知性がついていけない。三位一体説がわからないのは僕だけかな?キリスト教徒の皆さんは理解できてる?だとしたら、僕の知能が低すぎるんですかね。IQ低すぎ?またはキリスト教徒の皆さんの知性高すぎ?どっちかな。たぶん両方。 それに比べて、イスラムは神(アッラー)一本鎗ですからね。あーわかりやすい。あーすっきりした。落ち着きます。ほっとします。一件落着っと。 だからといって、キリスト教からイスラムに改宗したとか言うんじゃないですよ。神はわたしたちをどんなに愛しているかを、分からず屋のわたしたちにお示しになるために、ご自分の息子を差し出したのです。その愛によって僕は完全に打倒され、参ってしまったわけです。神の私たちへの痛いほどの愛は十分受け取っている。霊的には理解しているのです。白いあの光はまぶしすぎるほどに見えている。まぶしすぎて目を開けていられないくらい。 でも、三位一体説になるととたんにわからなくなる。愛を理性で理解しようとするからですかね。神の愛は理性を超えていて、それを無理やり理性的に説明しようとすると三位一体説のような難解な話になり、僕のような知能低すぎの者には意味不明となってしまう。 だから、キリストによって示された「愛」を僕は100%信じてるんですけど、三位一体説は全然頭に入ってこない。じゃあ、どんな風にキリストを信じているのかっていうと、「聖フランシスコの小さき花」のように、です。 思うに、三位一体説のところで、神は僕をわざとかたくなにさせたんですかね。それはイスラムに行くためでしょうか。たぶん...

キリスト教の反則ワザ

 旧約聖書では次々と預言者が遣わされますよね。そのたびに人間は預言者の言うことを聞かず、いつも 「神に背いた」 神様も忍耐強く、背いても背いてもまた新たな預言者を遣わし下さるのだけれど、どうして私たちは神の愛が分からないらしく、神さまも困って 「これでもわからないのか!」 って言って遣わされたのがキリスト。ご自分の最愛の一人子です。ご自分の息子を犠牲にすることで私たちの罪を浄められた。神は人間に初子を差し出すことを命じられましたが、ご自分も最愛の一人子である息子を人類の生贄に差し出されたのです。 これを聞いた時は、 「やられた!」 と思いましたね。その時は親鸞の弟子、というか仏教徒の視点で聞いたのですが。相手に慈悲を示すのに、最大のものは自分を相手に差し出すことだと思ってたんですよね。ブッダも飢えた虎に自分を食わせる話が出てきますけど。 自分の命を相手にくれてやることが最高の愛のカタチ だと思ってたんですけど、もっと上があった。 「自分の息子を差し出すこと」 親ならね、子供のためなら自分の命を差し出してもいいって思ってるんですよ。僕も親ですからね。中にはそうじゃない親もいるかもしれませんけど、そう思ってる親もきっと多いはず。分かるよね。 だから、キリスト教がキリストを十字架にかけて息子を差し出したって説いた時には、仏教徒の僕からしたら 「一本取られた!」 って感じなんですよね。ずるいぞ、キリスト教。それ反則ワザ。 神がどれほどわたしたち人類を愛せてくださっているかというと、人類を救うためなら自分のたった一人の息子を犠牲にしてもいい、というくらい。 もちろん、慈悲の光、すなわち愛の光、例の白い光が見えまくりですね。まぶしすぎて目を開けていられないくらい。 だから僕は仏教からキリスト教に改宗した、とかいうんじゃないですよ。ますます同じ光源から出ている慈悲の光、愛の光が強まったという感じ。 でも、息子と来たか。そう来たか。そう来る?9回裏に逆転満塁ホームラン打たれた感じなんですけど。 いやー、まいった。参りました。 そういうわけで、キリスト教は救いの説得力という点では一番かな、と思うわけです。 愛が強い。愛が強すぎる。 今日はこの辺でいいだろう 愛と慈悲の導くままに

生贄について

 前回生贄として初子を神に差し出すことを命じた厳しい神の掟について考えたのですが、そこから「生贄」について考えたことを書こうと思います。 宗教では「生贄」を神にささげる儀式がありますよね。それを聞くたびに 「あの慈悲深い神様が、そんなことお求めになるかな?」 っていつも疑問に思ってたんですけど、聖書である人物が初子を神に差し出そうとしたその瞬間に "Stop!!" と神がお止めになったシーンを思い出して、 「ああ、やっぱり神は慈悲深かった」 と安堵しました。本当は生贄なんて欲してないんですよ、神は。 神は、人間を試そうとして、人が一番大切なものを自分に差し出せと命じているのですが、そもそも、この世のあらゆるものは、神のものなのです。存在そのものが神から来るのですから、あらゆるものは存在と同時に神に捧げられているのです。だから、何を今更神に捧げるというのか。 とはいっても、神に感謝するときに、手ぶらでは格好がつかない、というのがわれわれ凡人の考え。だから、何か自分にとって大切なものを「生贄」として捧げないと落ち着かないのです。 でも、本当は神様はそれはそれは慈悲深いお方なので、動物であれ人間であれ、すべての命の幸せを日夜考えておられます。その大切な命を殺して、血を流して、神に捧げるなんて・・・ "Stop!!" 当然、その瞬間、その直前に、神の制止の叫びが聞こえるはずです。もし、聞こえなければ、それは神を本当には信じてないのです。愛そのものであり、慈悲そのものであるところの神を、信じてないのです。信仰心が足りないのです。 神の愛を信じてないんですね。 だから、もう生贄の儀式はいらないですね。その代わり 「私たちを含め、この世のすべては最初からあなたに捧げられています。だから御心のままにお命じ下さい」 と唱えればいい。 愛と慈悲の導くままに

初子を差し出すことについて

 さて、15年以上一度も聖書を開かずに、というか開けずに、どうやってキリスト教について語るのか、そんな無茶苦茶なことできるわけない、と思いつつ、書こうとしている自分ですが、何から書こうかな。 もうどんどん忘れてしまって、愛しか残ってない、とは言うものの、聖書の神って厳しかったんじゃなかっけ?特に旧約聖書。うーん、確かにそんな気がするけど、でもやっぱり愛しか残ってないんですよねえ。言ってみれば、神の厳しさって、厳父の厳しさで、それは真実の愛に裏打ちされた、愛ゆえの厳しさって感じですかね。子供のころを思い出すと、父って厳しかったよなあ。でも、今から思えば、それがあってこそ今の自分があるっていうか。大人になってから振り返ると、愛ゆえの厳しさだったんだな、と逆に感謝する、みたいな感じでしょうか。 その厳しさも、今となってはだいぶ忘れてしまいましたが、いまだに覚えているのは、初子を神に差し出すってこと。なんて無慈悲なことを神様は要求するのかって、思いましたけど、いざ初子を神に差し出すために殺そうとしたその瞬間、 "Stop!!" 神からストップが掛かった。 そしてその瞬間、僕は慈悲の光を見た。例の白い光ですけどね。 神は人間がどれだけご自分に心を向けているか試みるために、厳しい試練をお与えになったのですが、ちゃんと心を向けたら、慈悲をかけてくださった。そんな場面が聖書にありましたよね。もう誰の初子のシーンだったかすら忘れたのですが、その場面だけ心に焼き付いている。 そして後に残るのは、初子を差し出させる神の厳しさよりも、直前でストップをかけて初子を救って下さった慈悲、すなわち愛の方なんですよね。 神はどうしても人の心をご自分に向けさせたかったんでしょう。それはわたしたちを幸せにするためです。幸せは神から来るのに、神に心を向けないでどうして幸せになれるでしょう。神はどうしてもわたしたちを幸せにしたいんですね。神は幸福そのものなのに、それから目を背けてどうするというのか。 初子を差し出すって、そんな厳しいことを・・・ では神は、ご自分は、どうされたのかというと キリストを差し出された。ご自分の初子を私たちのために差し出された ってことになるのかな。 愛と慈悲の導くままに